後南朝研究の難しさ
後南朝研究の難しさは何と言っても史料が少ないことである。
後南朝の勢力は吉野よりもさらに奥の深山に潜んでいて記録らしい記録は皆無に等しく、また、反体制とも言える後南朝の反幕活動が正史に記録されることもなかった。
史料といえばもっぱら京都の朝廷(合一後の北朝)・室町幕府側の個人の日記や書簡類などの断片的なものに頼るしかないのであるが、それも史料によって食い違い、どれが真実か判然としない。
特に嘉吉3(1443)年9月23日に起こった禁闕の変(嘉吉の変)により後南朝勢力が奪取した神璽が、長禄元(1457)年12月に赤松満祐の遺臣がその所在を突き止めるまでの間、どこをどう遍歴したのかについては、今もってまったくわからず、後南朝史上最大の謎とされている。
京都の朝廷・室町幕府の側にも消息をうかがわせるような史料は皆無といってよく、朝廷も幕府もその所在をつかみかねていたものと思われる。
最終的に神璽が取り返された長禄の変に関する同時代史料により「吉野川上において、南方の宮兄弟打たれおわんぬ」「一宮は吉野奥北山御座、二宮は同河野郷。この間、大山を隔つ。通路有りといへども、七八里」とあることから、現在の奈良県の川上村及び上北山村を拠点に神璽を奉じた南朝皇胤の兄弟がいたことに疑いの余地はないと思われるが、一宮・二宮がどのような系譜の南朝皇胤であるのか等、明確なことは一切わかっていない。
従って、史料の少ないこの時代の歴史を把握するには後世の著である「南方紀伝」「桜雲記」「南山巡狩録」「残桜記」「南朝紹運図」「南朝皇胤紹運録」また、地元・川上村に伝わる史料である「南帝自天親王川上郷御宝物由来書」「川上朝拝実記」などに頼らざるを得ない側面がある。
しかしながら、これらはいずれも江戸時代初期以降の作であり、史料としての価値は格段に劣り、多分に脚色を加えたもので「信をおき難い」ものが少なくないと言わざるを得ないという問題点があり、後南朝研究を容易成らざるものとしている難しさがあるのである。
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