アイヌ民族の英雄「シャクシャイン」が眠る松前城内の『耳塚』
松前藩の苛酷なアイヌ民族支配強化に対し、アイヌの人々が団結して民族の誇りをかけて近世最大の抵抗を示したのが、寛文9(1669)年のシャクシャインの戦いである。
シャクシャインを中心とするアイヌ軍は、寛文9(1669)年6月4日に一斉蜂起した。
東は釧路のシロヌカ(白糠町)、西は天塩のマシケ(増毛町)までのアイヌ2000人が、シャクシャインの呼びかけに呼応して全アイヌ民族的な戦いとなり、松前藩との全面戦争に発展した。
はじめはアイヌ側優位で戦いは経過し、和人の死者は東蝦夷地で213人、西蝦夷地で143人にも上り、シャクシャインに率いられたアイヌ軍は松前城下を目指して進軍した。
松前藩は幕府にアイヌ蜂起を知らせ、事態を重く見た幕府は弘前津軽氏、盛岡南部氏、秋田佐竹氏に蝦夷地への出陣を命じると共に、松前藩主・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。
その後、戦いはほぼ互角に推移した。
長期戦となることを恐れた松前藩は和議を提案し、これに応じたシャクシャインは10月23日にピポク(新冠町)で和睦交渉を行った直後の酒宴の席で松前藩によってだまし討たれ、無残にも謀殺された。
翌24日、松前藩はシャクシャインの本拠地であるシブチャリチャシに総攻撃をかけてチャシを陥落させた。
指導者層を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、各地のアイヌの降伏が相次ぎ、戦いは終息に向かった。
なお、この時に処刑されたシャクシャインら首謀者14人の首の代わりに耳がそぎ落されて持ち帰られた。
そのシャクシャインらの耳を埋めたところが現在でも松前城内に残されていて「耳塚」と呼ばれている。
所在地→北海道松前町松城
おまけ:松前町郷土資料館に「松前氏」と「アイヌ民族」に関することが展示されていたので、ここで紹介する。
①松前氏の独立
②慶長9(1604)年に松前(蠣崎)慶広が徳川家康から発給された制書のよみ方
③体制に組みこまれたアイヌ
④しいたげられたアイヌ民族
⑤高利をもたらしたアイヌ交易
⑥アイヌ民族のたたかい
⑦アイヌ人口の減少
アイヌ民族の怒りと悲しみ(ヤイサマネナ)
私の大事な恋人が どこか遠いところにやられた
あなたは今どこにいるのか 風よ憎い風よ
お前は自由な風だから お前だけは私の恋人の
まわりをまわり さわっても歩けるだろうが
私は人間だから 行くことができないのだ
ヤイサマネナ
仕方ない風にでも 鳥にでもなって
とんで行ったら 恋人にさわれるだろうか
ちょつとでも姿を見れないだろうか
ヤイサマネナ
松前町郷土資料館→北海道松前町神明30
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