対馬の廃村に残されている『朝鮮国王姫の墓』
対馬の久原と女連の中間に、佐奈豊(土地の人はサナデと呼称している)という地名がある。
古くはここに小さな佐奈豊村があったと言われていて、この村の出身といわれる、佐奈豊源内が文禄の役に峯党から渡海して、文禄二(1593)年正月七日平壌城で戦死しているとのことである。
そんな佐奈豊村であるが対馬藩が貞享4(1687)年に当時の全戸数が七戸だった佐奈豊村の農民を、世帯数の少ない久原村と御園村に分けて移したといわれている。
これにより、佐奈豊村は歴史の上から消失し、現在では廃村となっているのだが、そんな佐奈豊村にはどんな理由か現在でも朝鮮国王姫のものとされるみかげ石の五輪塔の墓碑が残されている。
この地域には「豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(1592年~1598年)の時に某武将が朝鮮国王のお姫様を連れて来た」また「姫が亡くなる時、母国の見えるところに葬って欲しいと言い残して黄泉の国に旅立った。」との伝説があり、数百年間大事に語り続けられきたそうである。
その墓石の正面には、「李昖王姫」、側面には「慶長十八甲寅年」(1613年)の銘がある。
李昖は第14代朝鮮国王宣祖(1568~1608)を指すというが、その真偽は知ることができないとのことで、どのような経緯で対馬に連れてこられたのか、朝鮮国王姫の名前は何であるとか、対馬ではどのように過ごしたのかなどの詳細は知るよしもなかった。
尚、現地の看板によればこの佐奈豊に軍神社があり、源内の旧家臣であった女連村の荒木氏が現在も祀っているであるとか、対馬紀事に佐奈豊の長福寺が焼失したが、今も長福寺の跡が残っているであるとか書かれていたが、それらしいものがどこにあるのかはわからなかった。
所在地→長崎県対馬市上県町女連
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