洞窟内に『頭蓋骨』が山のように積み上げられている『白鹿権現(シシゴンゲン)』
白鹿権現(シシゴンゲン)は大分県旧野津町(現臼杵市)西神野の川沿いの山の絶壁のような急斜面をよじ登った先の洞窟内にある。
その名の通り、洞窟内にはおびただしい数の鹿や猪の骨が所狭しとびっしりと山のように積み上げられている。
その様子はまさに頭蓋骨が敷き詰められているといった感じで洞窟内を歩くといやが応でもこれらの骨を踏んでしまうほどである。
この他には類例のない、ある意味では身の毛もよだつような異様・壮絶で薄気味悪い景観はどのような理由で作られたものなのであろうか?
神様に奉納している、何らかの祈願をしているなど、宗教上・信仰上の理由があるのであろうが、現地には何の説明もないため、いつ頃からこのような風習が行われているのか、一体誰が管理をしているのか等、一切が不明だった。
観光協会にも問い合わせをしてみたが、白鹿権現のことについては、観光協会や市役所や文化財課等でも残念ながら詳細はわからないとの答えであった。
では、改めて白鹿権現の様子を観察してみる。
洞窟の入口には二つの石塔が建っている。
洞窟の中には小さな祠が二つある。
洞窟の入口や洞窟内には鍾乳石のようなものがある。
ひょっとしてこの洞窟は鍾乳洞なのだろうか?
鹿や猪の骨は山のように積み上げられているが、無造作に置かれているわけではないようである。
中には頭蓋骨に「令和」と書かれているものもあるので、現在でもこの洞窟へは頭蓋骨が奉納されているようである。
所在地→大分県臼杵市野津町西神野
尚、この白鹿権現は絶壁のような急斜面をよじ登っていく必要があり、途中、三箇所の鎖場がある(その鎖がなければおそらく登るのは無理)など、訪ねるのは容易ではなく、かなり厳しい道のりである。
白鹿権現(シシゴンゲン)への行き方(アクセス方法)
①を左折する(看板あり)
久保ん谷湧水(奥に白鹿権現)の看板があるところを左折する。
②ここを右折する(看板なし)
③右側に駐車スペースあり(看板なし)
④ここから白鹿権現を目指す(看板あり)
⑤ここを右に進む。そのまま左手に進むと熊野神社がある。(看板あり)
その先は道が不明瞭なので慎重に気を付けて進む。
⑥ここから絶壁のような急斜面を鎖を頼りによじ登っていく。
鎖場は全部で3箇所ある。
鎖場を抜けると傾斜が少し緩くなるが、粘土質なのか地面がツルツル滑るので注意が必要。
そのツルツルの斜面を登り切ったところに白鹿権現がある。
~おまけ~
白鹿権現について(追記・その後わかったこと)
①シシ権現洞穴遺跡調査報告
1976年に別府大学考古学研究室から「シシ権現洞穴遺跡調査報告」という報告書が出されていることを知った。是非とも読んでみたい。
②TRY!おおいた News Letter 2019年 6月号
大分県PR事務局が出している「TRY!おおいた News Letter 2019年 6月号」にて白鹿権現が『禁断の洞窟』『最恐パワースポット』として紹介されていた。以下引用。
世にも奇妙な大分県の最恐パワースポット白鹿権現(ししこんげん)
大分県臼杵市熊野神社の奥に佇む「禁断の洞窟」、白鹿権現。洞窟の中にイノシシやシカの骨が置かれていることから最恐スポット、聖域として注目を集めています。白鹿権現の由来は畑を荒らすイノシシや鹿と争った後、骨を供養したことが、始まりと言われています。そこには狩猟の無事故・安全狩猟・獲物の収穫が出来た事への御礼や神様に対しての感謝の気持ちが含まれています。臼杵市へ訪れた際は、独特で神秘的な雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。
③臼杵市の観光パンプレット
臼杵市の観光パンプレットの「臼杵市全域のマップ」の中で白鹿権現(シシ権現)が地図上に記載されていた。(2021年1月確認)
④生類供養と日本人
2015年2月に出版された「生類供養と日本人」という本の中で白鹿権現のことが詳しく紹介されている。それによると。。。
・白鹿権現は熊野神社の奥の院で女人禁制
・白鹿権現内の猟師がその年初めて仕留めた獲物を神に捧げる習俗によるもの。
・洞穴入口周辺の宝塔の塔身から貞和4(1348)年の紀年銘のある経筒が見付かっている。
・熊野神社の社伝によると「平安時代の末ころ、大野郡宇目郷(現佐伯市)に住む猟師の兄弟がいた。ある日のこと、この兄弟は豊後国と日向国の国境の山中で見事な白いシカを見付けこの神野の山中にまで迫ってきた。しかし西神野付近でこのシカを見失ってしまう。なおもシカを探していると、ある岩場に光が見える。近付いて見たところ神が現れ、我は国土を守護する熊野の神である。篤く信仰すべしと言った。」白いシカは熊野権現の化身であり、この神を祀った場所が現在の熊野権現で、社伝では久安2(1146)年のことだとしているという。
・上記熊野神社の社伝や貞和4(1348)年の紀年銘のある経筒のことなどから、鎌倉時代頃からこの洞穴が猟師の崇敬を集めていたと考えられるのではないか。
とのことである。
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