仏海上人の即身仏(観音寺・真言宗)
寺院名⇒観音寺(真言宗)
系統⇒注連寺系(湯殿山系)
没年又は入定年⇒明治36年(1903年)3月20日(76歳)
入定伝説⇒土中入定
通算訪問回数⇒3回
ご尊顔⇒データなし
お寺の様子
お寺のパンフレットより
全海法師。俗名、長谷川善吉。
慶長7(1602)年仏海上人は、俗姓近藤庄次郎といい、文政11(1828)年村上市安良町に生まれた。
弘化元(1844)年16歳の時、湯殿山注連寺に入門。
2年後には本明寺に弟子入りし、その後同寺に元治元(1864)年までの15年間居住した。
文久2(1862)年より木食行に入ったが、元治元(1864)年から慶応元(1865)年までの3年間、仙人沢に山籠し、水行、滝壺の座禅など厳寒、酷暑、昼夜の別なく生涯最大の荒行を行った。
下山の後、村上の観音寺住職や湯殿山の注連寺住職となり、村上・庄内地方の布教に専念した。
その間、加持祈祷はいうまでもなく、信徒から供えられる祈祷料や布施などで、十輪寺・観音寺・本明寺のほか多くの神社仏閣の再興に努め、貧民救済にもしばしば金銭や穀物を寄付した。
これらの功績をたたえ、新潟県知事から感謝状・賞状が7回も贈られている。
明治36(1903)年3月20日、76歳で観音寺裏に塚を築いて入定、座禅をしたままの姿で永眠。
この時、死後30年後に展墓をするよう遺言があったが、明治初年に発布された墳墓発掘禁止令のため、そのまま放置されていた。
昭和36(1961)年7月に新潟県村上市肴町の観音寺にあるこの仏海上人の入定塚が村上市教育委員会と日本ミイラ研究グループの手によって発掘調査された。
仏海上人は、日本最後の即身仏志願者であり、入定塚が発掘されたのは日本ではじめてのことである。
仏海上人の墓
私の感想コメント
その日、俺は新潟県の即身仏巡りをしていた。
事前に観音寺に拝観の問い合わせをしたところ、何時になっても構わないということを言われていた。
がしかし、柏崎の真珠院、寺泊の西光寺と訪問して、西光寺をあとにした時には、既に16時近くとなっていた。
寺泊から観音寺のある村上市はざっとみても100キロ以上はある・・・。さすがにもう無理かなぁ~・・・。
そう思いながら再び電話をしてみたところ、ウチは24時間365日いつでも拝観可能ですからとのこと。
どうやら、来るものは拒まずで、鍵も一度も掛けたことがないらしい。
そして俺は半信半擬のまま村上へと向かった。
ところが、いや、しかしというか、やはり村上に着いた時には日が暮れてしまっていた。
観音寺を探してみたものの行き当たらず、取り合えず瀬波温泉の観光案内所で聞いた話しによると、寺の人は大変難しい方で「即身仏を見に来た」などと軽くいうと見せてくれないので「即身仏様を拝観させていただけないでしょうか?とお願いするように」とのアドバイスを受けた。
色々と聞いているとどうやら土地の人達には変わり者と映っているようだった。そして、おそるおそる観音寺を訪ねた。。。
この観音寺を訪ねて一番驚かされるのは何といっても止まることを知らないご住職の奥さまのマシンガントークである。
きっと土地の方言だろう。仏海上人のことは「ぶっけ様」と呼んでいた。
それ以外の話しも方言がきつくてほとんど聞き取ることができなかったが、取り合えず神妙な顔をしてずっと耳を傾け続けた。
私はいつもならば根掘り葉掘り色々なことを質問しまくるのだがこの日ばかりはまったく手も足も出ず、ほとんど一方的に話しを聞かされ、完封負けを喫して帰宅の途に着いた。
ちなみに仏海上人は明治36年に入定した方で、現存しているものの中では日本最後の即身仏志願者である。(発掘されたのは昭和36年)
このため、お寺には生前のお写真を始め、仏海上人ゆかりのものが数多く残されており、仏海上人がこの地で生きておられたということを強く、そして身近に感じることができ、また境内には仏海上人が入定した塚も残されていて、土中入定が行われた場所をその目でリアルに見ることができる。
(その後、何年かしてもう一度この観音寺を訪ねた。。。やはり未だに奥様のその圧倒的なパワーは衰えずにいたのが妙にうれしかったりした。)
仏海上人入定塚
仏海上人入定木棺
石窟から掘り出された仏海上人の棺。杉と松杙を混入したもの。棺の中には水も入らず60年間地下の石窟にあった。上蓋の一部だけが腐敗していた。
仏海上人頌徳碑
所在地→新潟県村上市肴町15−28
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