本明海上人の即身仏(本明寺・真言宗)
寺院名⇒本明寺(真言宗)
系統⇒注連寺系(湯殿山系)
没年又は入定年⇒天和3年(1683年)閏5月8日(61歳)
入定伝説⇒土中入定
通算訪問回数⇒5回
ご尊顔⇒データなし
お寺の様子
お寺のパンフレットより
本明海上人は天和3年(1683年)入定、現存する湯殿山系一世行人の入定即身仏の中では最も古いものといえる。
長い石段の下に「本明寺」という文字の下に「本尊湯殿山大日如来」「本明海宗和上人即身仏」と二行にわけて彫られた石碑と、「湯殿山」の文字が彫られた自然石とが左右に並んでいる。ここは注連寺の末寺にあたる。
一直線の長い石段を登りつめた丘の上に寺はあり、正面が本堂である。
本明海上人は庄内藩の下級武士、斉藤徳左衛門の次男として元和9年(1623年)に生まれ、のちに富樫右馬之介の養子となって富樫吉兵衛と名のり70石で酒井家に召し抱えられた。
39歳のとき、藩主酒井忠当が病気になったため、その平癒を祈願するため、吉兵衛は他の5人とともに湯殿山へ代参を命ぜられた。寛文元年(1661年)のことである。
このとき一行は注連寺で定法どおり祈祷を受け、それから湯殿山へ登拝したが、6人のうち4人が横着をして登山しなかったので、吉兵衛は他の1人と、2人だけで湯殿山御宝前に詣でたという。
ところが、ここで吉兵衛は霊感を受け、そのまま湯殿山に残って勤行をつづけて帰らぬために藩公の怒りに触れ、妻子追放、食禄没収の厳しい処分を受けた。
そこで、翌寛文2年、吉兵衛は注連寺に入って一世行人となり、本明海を名のった。
のち、藩公の病気平癒を祈った彼の徳が認められ、吉兵衛の2人の子は各70石にとりたてられたといわれる。
本明寺はその50年前に不動山本明寺として心月上人という人が開山したものだが、それが荒廃していたのを、本明海が復興し、藩から寺領70石を与えられたといわれている。
さて、本明海上人は延宝元年(1673年)から1千日の五穀断ち、さらに1千日の十穀断ち、そのうえ松の甘皮だけを食べて5ヶ月の木食行ののち、天和3年(1683年)5月8日、61歳で本明寺境内で土中入定した。
そして身辺の世話をしていた農夫の宮崎弥右衛門に「3年3ヶ月したら塚を開いてくれ、即身仏になっているから…」と遺言し、そのとおり即身仏となって掘り出された。
即身仏堂の東、50メートル程先に本明海上人入定の遺址があり、大きな石碑が立っている。本明海上人は
藩主酒井公の眼を治したことで眼病に効があるといい、丑年ごとに行われる衣替えの古い衣を小さく切って、肌お守りの中に入れて信者に頒けている。
なお、本明海上人は忠海上人(酒田市・海向寺の即身仏)の叔父にあたる。
本明海上人が土中入定された「入定塚」
本明海上人が安置されている「即身仏堂」
私の感想コメント
本明寺は私の即身仏巡りの中で唯一3回も(もちろん最多訪問回数)訪問しているところである。
他の観光資源化されてしまったお寺や即身仏と違い、公開をしていることを積極的に公表しておらず、宣伝なども一切していないため、今でも本当に素朴で質素なままなのがうれしい。
滅多に人も訪ねて来ないらしく、初訪問の時には「よくここが分かりましたね」と驚かれ、3度目の時には「もう何度もいらしてますよね」と言われた。
境内は静寂そのもので、観光化されたお寺とは違い、逆に重厚な威厳を感じさせられ、身の引き締まる思いがした。
薄暗い即身堂の中では10数本のロウソクだけが頼りで、その先には本明海上人がお座りになっていて、不謹慎だが、不気味なことこの上ない。
まさに私が想像していた通りの即身仏がそこにはあった。本明海上人は湯殿山最古の即身仏であり、後に続く者達に多大な影響を与えたことは想像に難くない。
事実、その後、即身仏となった者に本明寺の住職となったものも少なくないのである。
また本明寺には入定塚も現存しており土中入定伝説を肌で感じることができた。俺の中の「ベストオブ即身仏」は間違いなく「本明寺の本明海上人」である。
しかし本明寺には3回も訪問したにも関わらず、写真はロクなものがない!即身仏巡りを始めた当時はまさか後日ホームページを作ることになろうとは夢にも思ってなかったとはいえ、非常に残念なことである…。
その後、約4年以上振りに本明寺を訪問する機会に恵まれた。また、その後にも再度訪ねる機会があった(通算5回)が、あえて感想・コメントはこのままにしておくことにする。
所在地→山形県鶴岡市東岩本内野388
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