全海上人の即身仏(観音寺・曹洞宗)




全海上人の即身仏(観音寺・曹洞宗)

寺院名⇒観音寺(曹洞宗)

系統⇒大日坊系(湯殿山系)

没年又は入定年⇒貞享4年(1687年)1月8日(85歳)

入定伝説⇒地上入定

通算訪問回数⇒1回

ご尊顔⇒データなし

お寺の様子

お寺のパンフレットより

全海法師。俗名、長谷川善吉。慶長7(1602)年6月8日、深戸村で生まれています。

慶長7年といえば、関ヶ原の戦いの2年後、徳川幕府成立の1年前ということになる。

ちなみに深戸村とは現在の鹿瀬町内。善吉は長ずるに従って立派な体格を持つ青年となりました。身長は五尺八寸、つまり約175センチもあり、その力は五人力。農業と筏乗りを生業としていました。

筏乗りとは、阿賀野川の水運を利用して、材木を運搬する仕事です。切り出した丸太を筏に組んで、下流の新潟平野まで漕ぎ出していきます。農業のかたわら、農閑期には筏乗り。そんな生活でした。腕っ節の強い正義感だったと伝えられています。

そんな善吉が信仰に目覚めたきっかけは、20代半ばを過ぎて身内の相次いだ不幸でした。まず寛永4(1627)年両親が死去。次いで2年後には妻子が世を去ったのです。この年寛永6(1629)年、世の無常を感じて出家。善吉、27歳のときのことです。

湯殿山で修行を積むこと18年。晴れて全海と名乗ることとなった善吉が故郷に帰ったのは正保4(1647)年のことでした。善吉は45歳になっていました。

帰郷した全海法師が心血を注いだのは、阿賀野川の改修。なにせ出家前は筏乗りです。阿賀野川の流れのことなら知らないことはありません。当時は渓谷の難所で岩場に激突してしまい、生命を落とす筏乗りも多かったのです。たがねや槌や挺子を抱えて岩場に行っては、とんかんとんかん。危険な岩場を削り取っていきました。この大事業を、85歳で亡くなるまでに、みごと成し遂げました。

全海法師が死の準備にとりかかったのは、亡くなる3年ほど前のこと。すなわち貞享元(1684)年。

この年から断食の行に入り、五穀を断って木の実などを食するようになりました。また、昼夜を問わず常に端座の姿勢を崩さなかったといいます。

そして、日常の世話にあたっていた善太郎と善四郎という2人の弟子に語っていわく。「わしはもうすぐ死ぬ。わしが死んでも埋葬してはならぬ。この端座の姿勢のまま即身仏として奉るように」亡くなったのは、貞享4(1687)年1月8日。遺言通り、端座したままの大往生でした。

さて困ったのは善太郎と善四郎。師の遺言もあることだし、埋葬するわけにはいかない。でもこのまま遺体を座らせておいていいものか…。迷ううちに時は流れました。

善太郎と善四郎の相談を受けた2人の両親が、会津藩の津川代官所に届け出たのはこの3年後。代官所も生前の徳を多として即身仏として奉ることを許したといいます。

全海法師の由緒(抜粋)

全海上人が安置されている「全海堂」

私の感想コメント

あぁ~、ついに、ついに俺は明日で日本に現存しているとされているすべての即身仏との対面をようやく果たし終えるんだ…。

その日、俺は言い様のない、異様な興奮を抱いたまま就寝した。そして翌日、夜も明け切らぬうちに出発した俺は、一路新潟県へと向かった。

車中、これまでの即身仏巡礼の旅を走馬灯のように思い出しながら…。

いつの頃からか、俺は即身仏を訪ね歩く行く先々で「実は、私は日本全国の即身仏を訪ね歩いているんですよ」と自己紹介をするようになっていた。が、それも今日で最後だな…。

日本に現存している即身仏すべてとの対面を果たし終えたら、その先には一体何があるのか?一体何が見えるのか?はやる気持ちを押さえて全海上人が待つ観音寺へと向かう。

実はこの全海上人は一年に一度しか御開帳をしない。つまり今日を逃すとまた来年までそのチャンスはない。

そのため、この日は全海上人が居られる村ではちょっとしたお祭りの日でもあり、全海上人を慕う村人が次々とお参りにきていた。

これまで即身仏巡礼をしてきた中でこれ程まで、自分以外の人がいたことは皆無に等しかったので、何か変な感じを抱きながらも、あぁ~これでようやく最後の即身仏だなとしみじみしながら、全海上人との対面を果たし終えた。

しかし昨日からの興奮状態はどこ吹く風で、俺は念願の日本に現存しているすべての即身仏との対面を果たし終えたというのに感動・感激するわけでも、感無量となるわけでもなく、達成感や満足感で満たされるわけでもなく、何の感情も抱かなかった。

まるで憑いていた何かがきれいさっぱりと抜け落ちてしまったかのようだった。あの時の感情は果たし終えたという安堵感や開放感とも違った。

強いていえば、これですべてが終わったな(あぁ~終わっちゃったな…)という自分でも驚くくらいあっさりとさばさばとした感じで、身も蓋もないいい方をすればこれまでのことがどうでも良くなったのである。

結局その後、小一時間程、全海上人と相対したにも関わらず、やっぱり何も思うところがなかった俺は、この日で日本に現存している即身仏すべてとの対面を果たし終えたにも関わらず、何も見えず、何ら特別な感情も抱くことがなかったため、肩透かしを喰らったような、拍子抜けをしたような、そんなバカな!俺がやってきたことはこんなものだったのか?でも、とにかく終わったんだから、まぁいいか…というような複雑な違和感を感じまくりながら、全海堂を後にした。

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