宥貞法印の即身仏(貫秀寺・曹洞宗)
寺院名⇒貫秀寺(曹洞宗)
系統⇒高野山系(非湯殿山系)
没年又は入定年⇒天和3年(1683年)12月23日(92歳)
入定伝説⇒地上石像内入定
通算訪問回数⇒1回
お寺の様子
お寺のパンフレットより
宥貞上人は松平出羽の守領雲洲出雲国松江村の郷士近松右ェ門入道安利の長子に生る。
幼名を貞作と云い元服して宗右ェ門治久と称した。
慶長19年(1614年)4月讃岐国那珂郡小松の荘松尾寺住職宥昌師の弟子となり宥貞と改める。
27歳の時、師宥昌が死んだので諸国行脚を志し奥州出羽の国を経て北陸道高野山に登り金剛三昧院に於て真言密教を学び少僧都となり、その後江戸深川の永代寺の住職となり権大僧都に進級し寛永8年(1631年)12月、赤井岳に登り暫時。
更に棚倉町観音寺に脚を留め大草の堀川観音堂に移り23年其の後小貫村真言宗東永山観音寺に移って村人のため加持祈祷を行っていたが、天和3年(1683年)12月8日弟子の宥林に後を嗣がせ薬師如来大祭を設け村人を集め薬師如来十二大願の説法を行った、夜半に及んで徐々に衣を整え浄髪沐浴自らを悟り石棺に入り、結印深く三昧に入り「我将に三七、二十一日に入滅するなり」と遺書して曰く。
尋枝摘葉存宗門 九十二年残夢翻
調入臘月弾白雪 唯知長日示魂源
と天和3年(1683年)12月23日入滅したという。
現に全身ミイラとなって座化す。
当時日本は悪性の伝染病が流行し人々は苦しんでいた時代でこの浅川界隈も悪病が流行していたに違いない。
宥貞法印は我が身を後世に留めて人々の病気を治し寿命を長くしようと願をこめて薬師如来たらんと石棺に入ったのであろう。
国内では類のない珍しい入定ミイラである。
当時棺桶も発掘され復元されている300年前の棺桶は国内では珍しく貴重な文化財である。
宥貞法印が安置されている薬師堂
この石仏の下が空洞になっていて、宥貞法印がこの石棺に入ったのが、天和3年(1683年)12月8日で入滅したのが12月23日。
宥貞法印が入滅した時に使用された棺桶
宥貞法印行状記
私の感想コメント
その日私は事前に貫秀寺に連絡を入れて、○○時頃にお伺いをしたいのですがよろしいですか?と珍しくアポを取ってから訪問をしました。
がしかし・・・、アポを取っていたにも関わらず、貫秀寺を訪ねた時には、ものの見事にお寺の方が誰もいませんでした。
おぉ~い!さっき約束しただろ!・・・。
そして待つこと10分、20分、30分、40分・・・
この日、私に旅の目的も告げられずに、半ば強制的にここまで連れてこられた知人は、もういい加減諦めて帰ろうよぉ~などとまったく身勝手で根性のないワガママな泣き言を言い出す始末。
あと10分、もう5分となだめすかして粘っていたら、ようやくお寺の留守を預かっているおばあちゃんが帰ってきた。
「あぁ~さっき電話をくれた人?畑に行ってたから全然気付かなかったのよ」と一言。
聞けばお歳は80歳を越えているご長寿おばあちゃんとのこと。(ちなみに私の後にも恐らく即身仏の拝観をしにきたと思われる訪問者がいたが待ち切れずに帰っていった。ふっ、根性なしめ。)
まー、それはともかく、ようやく私は宥貞法印との対面を果たすことになりました。
実は事前に宥貞法印の写真を即身仏の本で見ていた私はとても可愛らしい、愛嬌のあるおばあちゃんのようだなぁ~と思っていて対面できる日を心待ちにしていました。
そして実際に対面をしてみてもその印象は大きく変わることはありませんでした。
思えばこの宥貞法印を除く即身仏はその表情に厳しい修行を乗り越えた凄みや鬼気迫る迫力、言い換えれば不気味で強烈な表情が表れていることがほとんどなんですが、なぜか唯一この宥貞法印は穏やかな顔をなさっておられます。(そういう意味では初心者向けの即身仏といえるかも知れません。)
その後、何だかんだと2時間近く滞在して、最後にはお寺に上げてもらいお茶菓子までいただいた私はいつまでもお元気でいて下さいとの言葉を残して貫秀寺を後にした。
お寺の看板
所在地→福島県浅川町小貫宿ノ内63
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