CATEGORY 元寇防塁

逃の浦の石塁(元寇防塁)

逃の浦の石塁(元寇防塁) 逃の浦の石塁(元寇防塁)。かつて星鹿城山山麓の鷹島に面する汀線には、「金倉の石塁」とあわせて、野面積みの石塁が約1kmにわたり延々と元寇の役の当時のまま残されていたというが、戦争時の採石や台風被…

地行元寇防塁 

元寇防塁(地行地区) 地行地区の元寇防塁は博多湾岸のほぼ中央部に位置するが、発掘調査は実施されてなく、その構造や築造の分担国などはまだわかっていない。 指定された昭和前期には高まりが残っていたそうであるが…。 現在は、住…

長門の元寇防塁

長門の元寇防塁 長門の元寇防塁。元寇防塁は長門にも造られたという話があり、下関に元寇防塁とされるものが残されている。 現在は下関ゴルフ倶楽部の中にあるのでクラブハウスに見学の依頼をする必要がある。 尚、現地の看板によると…

生の松原元寇防塁

生の松原元寇防塁 生の松原地区の元寇防塁は肥後国が担当して築造し、警備をした。 生の松原地区の防塁は長垂海岸から小戸海岸に至る約2、5キロに渡って築かれている。 防塁は海側に石を積み上げ、陸側は版築と呼ばれる工法で土と砂…

西南学院大学内元寇防塁

西南学院大学内元寇防塁 西南学院大学内にある元寇防塁は同校の第1号館の新築にあたって検出された遺構である。 同校に隣接する西新地区元寇防塁と同様に2、4mの本体の両面を石積みで堅固に整え、中に粘土と砂を交互に詰められてい…

各地に残る元寇防塁

元寇防塁位置図 各地に残る元寇防塁 『福岡県』 今津元寇防塁、今山元寇防塁、今宿元寇防塁、生の松原元寇防塁、姪浜(向浜地区)元寇防塁、姪浜(脇地区)元寇防塁、西新(百道)元寇防塁、西新元寇防塁、地行元寇防塁、箱崎(地蔵松…

​元寇防塁のその後

​元寇防塁のその後 弘安の役の後も元は日本征服をあきらめなかったため、鎌倉幕府も防衛体制をゆるめることができなかった。 博多湾の元寇防塁はその後も増築・補修が続けられ、鎌倉幕府滅亡後も建武政権、室町幕府によって修復が加え…

​元寇防塁はどのように造られたのか?

元寇防塁はどのように造られたのか? 鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じた。築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。 今  津 3km 日向・大隅 今  宿 2.2km 豊前 …

​元寇防塁が造られた理由

元寇防塁が造られた理由 第一回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と上陸を許し、内陸を蹂躙された。この苦い経験から幕府は九州各国の御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。 当時これを石築…

元寇防塁とは?

元寇防塁とは? 文永11(1274)年に蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府が、元の再度の襲来に備えて、1276年3月から約半年間で、博多湾の海岸線約20キロ(西の今津から東の香椎まで)に九州九ヶ国の御家人に命じて築かせた石造りの…