元寇防塁はどのように造られたのか?
鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じた。築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。
今 津 | 3km | 日向・大隅 |
今 宿 | 2.2km | 豊前 |
生の松原 | 1.7km | 肥後 |
姪 浜 | 2km | 肥前 |
西新(百道) | 2.3km | 不明 |
博 多 | 3km | 筑前・筑後 |
箱 崎 | 3km | 薩摩 |
香椎 | 2km | 豊後 |
鎌倉幕府が命じた石築地役は所領一段(反)につき一寸の長さを築くというもので、九州の各国はそれぞれの分担地区におもむき、文永の役の翌建治元(1276)年3月から8月までの約半年という短期間で防塁を完成させ、その後は分担地区の警備をつとめた。
このように半年間という短い期間で築く必要から各国同時着工したと思われ、それぞれの地区によって築造の工法・構造が異なっていることが分かっている。
元寇防塁位置図
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