​元寇防塁のその後




​元寇防塁のその後

弘安の役の後も元は日本征服をあきらめなかったため、鎌倉幕府も防衛体制をゆるめることができなかった。

博多湾の元寇防塁はその後も増築・補修が続けられ、鎌倉幕府滅亡後も建武政権、室町幕府によって修復が加えられた。

元寇防塁である石築地が長年にわたって補修されたことは、正安4(1302)年8月28日付の薩摩国守護代・酒匂本性の覆勘状や延元3(1338)年閏7月付の足利直義が豊後の守護・大友貞宗に宛てた文書で確認できる。

前者は薩摩国の御家人・延時成仏に宛てたもので、この時成仏は三丈二尺(約10m)の石築地を修理しており、同じ年の10月15日には、肥前国五島の住人・白魚行覚が姪浜に一尺七分(田地二町分)の石築地を構築して、肥前国守護代の平岡為政より覆勘状を受け取っている。

他にも築城郡吉富村を本拠とした成富氏が、乾元2(1303)年に今宿地区の防塁の修理を完了したという古文書もある。また、後者は鎌倉幕府が滅亡したあとも石築地の修築が行われたことを示すもので、足利直義が大友貞宗に少弐頼直と協力して年内に補修を完成せよと命じている。

同様の文書は康永元(1342)年5月3日付で、足利尊氏が大友氏泰に対して鎮西要害石築地の修固を命じたものもある。

このように室町時代になっても元寇防塁の修理が行われ、蒙古に対する警備体制が続いていたが、1368年に元が滅びると元寇防塁もいつしか忘れ去られ、江戸時代の初めには砂の中に埋まってしまったと言われている。

遺存状況は都市部では悪く、福岡・博多町民が建築材や日常に必要な石材として運び出したとされるほか、江戸時代の福岡城築城の際に、石垣の石として防塁の大半が失われたと考えられている。

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