御朝拝式とは 御朝拝式は自天王・忠義王をしのび、奈良県川上村で毎年2月5日に行われている式典である。 朝拝式とは享徳元(1452)年2月5日に自天王が即位し、宮中で正月に天皇に拝賀する朝賀拝礼式を行ったことに由来する。 …
CATEGORY 後南朝
南方一流は断絶さるべし(南朝皇胤断絶策)
南方一流は断絶さるべし(南朝皇胤断絶策) 南北朝合一後、幕府の南朝皇胤に対する基本政策は『最終的には後醍醐天皇の血を引く南朝皇胤の宮家はすべて断絶させる』というものであった。 しかしながら、将軍の代により強硬と穏健との差…
西陣南帝
西陣南帝 旧南朝皇胤が最期の光を放ったのは1392年の南北朝合一から実に79年後の応仁の乱に際してのことだった。 細川勝元率いる東軍が天皇及び将軍という公武の最高の権威である後土御門天皇・足利義政を自軍に引き込むことに成…
長禄の変
長禄の変 長禄の変とは禁闕の変で後南朝に奪い去られた三種の神器の一つである神璽を奪還するために赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である一宮と二宮(川上村の伝承では自天王と後南朝の征夷大将軍である忠義王と伝わる…
禁闕の変
禁闕の変 禁闕の変とは嘉吉3(1443)年9月23日の夜に尊秀という者と日野有光が旧南朝の皇胤である金蔵主・通蔵主の兄弟の宮を擁して、後花園天皇の暗殺および三種の神器の強奪を企て、数百人の徒党をもって内裏を襲撃し、後花園…
後南朝哀史
後南朝哀史 ~後南朝の痕跡と消息を追う~ 「其の一 : 後南朝とは」 「其の二 : 後南朝研究の難しさ」 「其の三 : 後南朝の歴史」 「其の四 : 川上村の後南朝伝承」 「其の五 : 南方一流は断絶さるべし(…
後南朝研究の難しさ
後南朝研究の難しさ 後南朝研究の難しさは何と言っても史料が少ないことである。 後南朝の勢力は吉野よりもさらに奥の深山に潜んでいて記録らしい記録は皆無に等しく、また、反体制とも言える後南朝の反幕活動が正史に記録されることも…
後南朝とは
後南朝とは 後南朝とは端的にいえば「その後の南朝」という意味である。 具体的にいえば明徳3(1392)年の南北朝合一以降に起こった、南朝の系譜をひく皇胤とそれを擁した旧南朝勢力による断続的に再三繰り返された皇位奪還運動の…
南朝は一体どのようにして滅びたのか?(小倉宮教尊の墓)
南朝は一体どのようにして滅びたのか?(小倉宮教尊の墓) 所在地→島根県知夫村郡(松養寺) 明徳3(1392)年の南北朝合一により南朝が滅亡したわけではない。実は南北朝合一後も南朝の系譜をひく皇胤とそれを擁した旧南朝勢力に…