大友頼泰の墓
頼泰は大友家第三代当主で大友家惣領として初めて豊後に入国し、以後大友氏は豊後に土着し勢力を築いた。
頼泰は仁治3(1242)年に鎌倉幕府の御成敗式目を参考にして「新御成敗状」28条を作成し、寛元2(1244)年には「追加法」16条を定めた。
また、蒙古襲来に備えて、鎌倉幕府が鎮西に所領を持つ御家人に下向を命じた1271年頃には武藤(少弐)資能とともに幕府から九州の武士に対する軍事指揮権が与えられ、頼泰自身も豊後に下向した。
文永の役に際しては、豊後国守護・鎮西一方奉行として、豊後の御家人たちを率いて、姪浜や百道原などの博多西方海岸で奮戦した。
さらに弘安の役では香椎前浜を警護していた頼泰率いる軍勢は、博多湾内の志賀島に上陸した蒙古軍を海の中道から攻撃し、侵攻を食い止めるなどの活躍をした。
竹崎季長の蒙古襲来絵詞には騎馬武者姿の頼泰が描かれるなど、蒙古襲来を経て鎮西に強い権限を掌握し、大友氏の豊後での発展の礎を築いた。
所在地→大分県大分市岡川501
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