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兵衛次郎の墓

兵衛次郎の墓 兵衛次郎の墓。 兵衛次郎は対馬の守護代・宗助国(資国)の家臣で文永の役の際、対馬小太郎と共に対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たした。 その後、兵衛次郎は少弐景資の幕下となって小太郎と共に各…

宗下野次郎の墓(その1)

宗下野次郎の墓(その1) 宗下野次郎盛忠(盛維)の墓。宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承があり、…

対馬小太郎の墓

対馬小太郎の墓 対馬小太郎の墓。 小太郎は対馬の守護代・宗助国(資国)の家臣で文永の役の際、兵衛次郎と共に対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たし、その後、博多の防衛戦に参加し、弘安の役でもめざましい活躍を…

宗甲斐六郎盛家の墓

宗甲斐六郎盛家の墓 宗甲斐六郎盛家の墓。 宗氏家譜には文永の役で討死した将士の名が三十余名列記されていて、その中に宗を名乗る一族が十名いる。 元軍の軍船は九百艘とされ、対馬には全島が襲撃されたとの伝承があり、宗助(資)国…

宇久競の墓

宇久競(宇久氏七代の墓)の墓 宇久氏七代の墓。宇久氏は初代・家盛が文治3(1187)年に宇久島に上陸して土着の豪族を平定して領主となり、鎌倉幕府より所領を安堵され、従五位下に叙せられ、肥前の守に任じられたという。 以来、…

元使塚

元使塚(常立寺) 元使塚は文永の役(1274年)の翌年に元より降伏勧告に使わされ、龍の口で斬首された正使・杜世忠、副使・何文著、通訳・徐賛ら五人の元使の供養塔と伝えられているものである。 杜世忠は元から我が国に使わされた…

対馬の廃村に残されている『朝鮮国王姫の墓』

対馬の廃村に残されている『朝鮮国王姫の墓』 対馬の久原と女連の中間に、佐奈豊(土地の人はサナデと呼称している)という地名がある。 古くはここに小さな佐奈豊村があったと言われていて、この村の出身といわれる、佐奈豊源内が文禄…

平景隆の墓

平景隆の墓 平景隆の墓。景隆は壱岐の守護代で文永の役(蒙古襲来・元寇)で、対馬を発した元軍が文永11(1274)年10月14日申刻(午後4時頃)に壱岐の西面に姿を現したとの島民の注進があるとすぐさまに一族郎党100余騎の…