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対馬の廃村に残されている『朝鮮国王姫の墓』

対馬の廃村に残されている『朝鮮国王姫の墓』 対馬の久原と女連の中間に、佐奈豊(土地の人はサナデと呼称している)という地名がある。 古くはここに小さな佐奈豊村があったと言われていて、この村の出身といわれる、佐奈豊源内が文禄…

平景隆の墓

平景隆の墓 平景隆の墓。景隆は壱岐の守護代で文永の役(蒙古襲来・元寇)で、対馬を発した元軍が文永11(1274)年10月14日申刻(午後4時頃)に壱岐の西面に姿を現したとの島民の注進があるとすぐさまに一族郎党100余騎の…

島津家第三代当主・島津久経の墓(感応寺五廟社)

島津久経の墓(感応寺五廟社) 感応寺の五廟社(島津家初代忠久より五代貞久の墓所)にある島津家第三代当主・久経の墓。(真ん中が久経の墓) 久経の父は忠時、母は伊達判官入道念性の娘。文永2(1265)年に父から家督を譲られ鎌…

島津家第四代当主・島津忠宗の墓(感応寺五廟社)

島津忠宗の墓(感応寺五廟社) 感応寺の五廟社(島津家初代忠久より五代貞久の墓所)にある島津家第四代当主・忠宗の墓。(右から2番目が忠宗の墓) 忠宗は島津久経の長男で父とともに弘安の役で元軍と戦い、大いに活躍して武功を挙げ…

赤星有隆の墓

赤星有隆の墓 赤星家の祖である赤星有隆の墓。 有隆は菊池武房の弟で、蒙古襲来に際しては兄・武房とともに副将格として出陣し、文永の役では赤坂で蒙古軍を迎え撃ち、弘安の役では生の松原の防塁に拠って戦い、蒙古軍の上陸を阻止する…

河野通有の墓

河野通有の墓 河野通有は源平合戦で有名な河野通信の孫であるが、当時の河野氏は通信が承久の乱で上皇方に加担したため所領所職の大半を失っており、通信の子である通久が河野一族の中で唯一鎌倉方についたことによりかろうじて命脈を保…

竹崎季長の墓(蒙古襲来絵詞の作者)

竹崎季長の墓(蒙古襲来絵詞の作者) 竹崎季長の墓。季長は鎌倉時代後期の武士で肥後国の住人。 菊池氏の一族とする説が有力であるが、本領の益城郡竹崎を失っていた季長は、文永11(1274)年の元寇の際に、少弐景資の指揮のもと…

相良頼俊の墓

相良頼俊の墓(願成寺) 相良氏の第三代当主・相良頼俊の墓。 頼俊は長頼の三男で寛元4(1246)年に父・長頼から肥後人吉荘内の所領を譲られ、さらに建長6(1254)年には兄・頼親の跡を継ぎ相良家の第三代当主となった。 そ…

宗助国(資国)の胴塚

宗助国(資国)の胴塚 宗助国(資国)は宗家初代・重尚の末弟で重尚から襲封云々とあるが確証はない。 一方、他の確実な史料における宗氏の初見で、対馬守護・地頭である少弐氏の守護代、地頭代を勤めていたことが知られる最初の人物で…