古都鎌倉のシンボルである国宝・鎌倉大仏(長谷の大仏・高徳院) 日本人なら誰もが知っているものの、よく考えたら詳しいことは何一つとしてわかっていない「ミステリアス」な『国宝・鎌倉大仏(長谷の大仏)』の知られざる一面を紹介し…
お涙ちょうだい!国宝・鎌倉大仏の哀愁漂う「うしろ姿」とは?

古都鎌倉のシンボルである国宝・鎌倉大仏(長谷の大仏・高徳院) 日本人なら誰もが知っているものの、よく考えたら詳しいことは何一つとしてわかっていない「ミステリアス」な『国宝・鎌倉大仏(長谷の大仏)』の知られざる一面を紹介し…
「世界で唯一」の二重らせん構造の『会津さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂)』とは? ⽩⻁隊⼠19名の最期の地となったことで有名な会津若松の飯盛⼭には「世界で唯⼀」の⼆重らせん構造の⽊造建築物である『さざえ堂』という奇想天外で誰…
上野三碑(山上碑、多胡碑、金井沢碑) 上野三碑は古代上野国(現在の群馬県)に現存している飛鳥時代・奈良時代に造立された日本最古級の「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」の三つの石碑の総称である。 日本国内に現存する平安時代以前…
鎌倉の鶴岡八幡宮には「海に浮かぶ」幻の『浜の大鳥居』があった?! かつて「鎌倉の鶴岡八幡宮」には「日本三景の安芸の宮島(厳島神社)」のように『浜の大鳥居』と呼ばれ、海の中に浮かぶ「幻の大鳥居」が存在していたとの噂を聞き付…
元寇防塁位置図 各地に残る元寇防塁 『福岡県』 今津元寇防塁、今山元寇防塁、今宿元寇防塁、生の松原元寇防塁、姪浜(向浜地区)元寇防塁、姪浜(脇地区)元寇防塁、西新(百道)元寇防塁、西新元寇防塁、地行元寇防塁、箱崎(地蔵松…
元寇防塁のその後 弘安の役の後も元は日本征服をあきらめなかったため、鎌倉幕府も防衛体制をゆるめることができなかった。 博多湾の元寇防塁はその後も増築・補修が続けられ、鎌倉幕府滅亡後も建武政権、室町幕府によって修復が加え…
元寇防塁はどのように造られたのか? 鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じた。築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。 今 津 3km 日向・大隅 今 宿 2.2km 豊前 …
元寇防塁が造られた理由 第一回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と上陸を許し、内陸を蹂躙された。この苦い経験から幕府は九州各国の御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。 当時これを石築…
元寇防塁とは? 文永11(1274)年に蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府が、元の再度の襲来に備えて、1276年3月から約半年間で、博多湾の海岸線約20キロ(西の今津から東の香椎まで)に九州九ヶ国の御家人に命じて築かせた石造りの…
元寇防塁を訪ねる 「其の一 : 元寇防塁とは?」 「其の二 : 元寇防塁が造られた理由」 「其の三 : 元寇防塁はどのように造られたのか?」 「其の四 : 各地に残る元寇防塁」 「其の五 : 元寇防塁のその後」…