妙心上人の即身仏(横蔵寺・天台宗)




妙心上人の即身仏(横蔵寺・天台宗)

寺院名⇒横蔵寺(天台宗)

系統⇒富士山系

没年又は入定年⇒文化14年 (1817年)3月 (37歳)

入定伝説⇒地上入定

通算訪問回数⇒1回

ご尊顔⇒データなし

お寺の様子

お寺のパンフレットより

妙心上人は天明元年(1781)に横蔵に生まれました。両親の没後、仏道修行のため巡礼の旅に出て、西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、四国八十八ヶ所を巡り、やがて信濃の善光寺の万善堂(大勧進)で受戒されました。

その後、富士山に登り、自ら富士大行者と称し、富士講の先達を勤めました。山梨の都留郡鹿留村に住し、御正体山にも登りましたが、文化12年(1815)或いは文化14年(1817)御正体山の洞窟で断食し、入定されたのであります。

3月29日(或いは3月24日)のことと云います。上人の遺体は村人の手によって祠られていましたが、明治の初め山梨県庁へ移され、明治13年天皇行幸の際、天覧に供されたと云います。これが縁で明治23年出生地の横蔵寺に祠られることになったのであります。

全く人工の手を施すこと無く、現在に至っている訳であり、上人の信仰の厚さを物語っているのであります。現在も自然のまま舎利堂に安置されております。

私の感想コメント

岐阜の正倉院と言われている名刹・横蔵寺にいらっしゃるのが、妙心上人である。が、妙心上人がこの横蔵寺に祀られるようになるまでには大変な紆余曲折があったようだ。

というのも、妙心上人を除く日本各地の即身仏はみな入定したゆかりの(またはそのすぐ近く)に祀られるられているものなのであるが、唯一この妙心上人だけはまったく違うのである。

もともと妙心上人は江戸時代に流行した富士講(富士山信仰)出身の即身仏であり、明治維新までは入定の地である御正体山に御堂があり、信仰を集めていたそうであるが、明治維新後の神仏分離のあおりを食って、山頂から運び下ろされてしまい、一時は見世物にされていたこともあったようだ。

その後、山梨県庁が身柄を引き受け、次いで甲府の病院が医学資料として妙心上人を引き受けたという。そして、明治12年には明治天皇が巡幸の際に妙心上人をご覧になったという逸話も残されているそうである。

こうした中で、妙心上人の出身地である横蔵で妙心上人の子孫等関係者が帰郷運動を展開した結果、下賜を受けることになり、横蔵寺に一堂を建立してお祀りすることになったものであるという。

がしかし、いくら妙心上人の生まれ故郷とはいえ、妙心上人の信仰や思想的背景とはまったく関係のないお寺に祀られているというのは違和感を感じざるを得なかった。(私はそういうところから入っていきたい…)

それにしても横蔵寺は遠く山深い。私は即身仏以外に仏塔にも並々ならぬ興味があり、そういった意味では即身仏と三重塔を一度にお目にかかることができる横蔵寺は一挙両得でなかなかのお買い得感があったのだが、やはりかなり遠い…。

その後も訪ねようと思えば訪ねられる機会が二回ほどあるにはあったが、横蔵寺を訪ねたら、少なくとも3時間は時間を浪費し、その後の予定もぐちゃぐちゃになりそうだったのでやめた…。また訪ねる機会はあるのだろうか…。

所在地→岐阜県揖斐川町谷汲神原1160

即身仏の関連記事

日本の即身仏・ミイラを巡る旅

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください