日本宗教史の謎!「補陀落渡海」の一大拠点だった『補陀洛山寺』




日本宗教史上の謎とされる「補陀落渡海」の一大拠点だった『補陀洛山寺』

目次

①補陀落渡海とは
②補陀落渡海の一大拠点だった補陀洛山寺
③補陀落渡海を描いた唯一の絵画資料である「那智参詣曼陀羅」
④補陀落渡海船
⑤補陀落渡海上人の墓
⑥補陀洛山寺渡海上人一覧
⑦補陀洛山寺の境内にある看板
⑧補陀洛山寺の所在地・地図

補陀落渡海とは

補陀落渡海とは生きながらにして、はるか南方洋上にあるとされる観音浄土(補陀落浄土)での往生を目指して舟に乗って出帆する一種の捨身行である。

補陀落渡海の跡地は北は茨城県の那珂湊から南は鹿児島県の加世田にいたる日本各地の沿岸部に伝承なども含めて全国で約60例が知られている。

しかしながら、信仰のためとはいいながら、実在しているかどうか定かではない観音浄土(補陀落浄土)に向かって決死の船出をする「補陀落渡海」は未だに未解明の部分が極めて大きく『日本宗教史上の大きな謎』といわれている。

補陀落渡海の一大拠点だった補陀洛山寺

日本の「補陀落渡海の発祥の地」で「最大の出帆基地」は「熊野那智」であり、全国の約60例のうち実に約半数は「補陀洛山寺の僧」たちである。

熊野年代記等によると平安時代初期から江戸時代中期にかけて20数回にわたり、那智の海岸から渡海したと記録されているが、記録漏れもあると思われるので、実数はこれより多いと考えられている。(那智に次いで多いのは足摺、室戸)

現在、中庭にある「補陀落渡海記念碑」には868年から1722年までの間に行われた20回以上の補陀落渡海が列記されている。

但し、近世になると金光坊が渡海を拒んで船から脱出して島に上がったが、その後見付かって無理やりに入水させられたという伝説があり、それ以降は生きながらにして渡海をするという習慣はなくなり、最後の数回は補陀洛山寺の住職が亡くなると、かつての補陀落渡海の方法で遺体を船に乗せる形で水葬をするという儀式に変わったとされている。

補陀落渡海を描いた唯一の絵画資料である「那智参詣曼陀羅」

補陀洛山寺の本堂には那智参詣曼陀羅の複製品がある。那智参詣曼陀羅の右下に描かれた補陀洛山寺の部分を見てみると、現在では海岸から300mほど奥まった場所にお寺があるが、当時は補陀洛山寺のすぐ目の前に海が広がり、波打ち際には大きな鳥居が建っていたことがわかる。

鳥居の額には「日本第一」の文字があり、鳥居の間には赤い頭巾と袴を身に付けた渡海僧と思われる3人が立ち並び、その後ろには黒い衣を身に付けた僧たちが天蓋や四本幡を持って連なっていて、補陀落渡海が葬送の形態をもって行われたことを物語っている。

海上に目をやると、補陀落渡海船と思われる屋形船が浮かび、大きな白帆が目に付く。渡海船の後方には曳き船と思われる小さな船が二隻浮かび、船頭や僧侶たちが乗っている。渡海僧を見送る人々はみな手を合わせている。今まさに那智の海岸から補陀落渡海が行われようとしている場面である。

補陀落渡海の多くは11月、北風の吹く日を選んで夕刻に行われ、当日渡海僧は補陀洛山寺御本尊の前で秘密の修法をし、続いて三所権現を拝した。観衆が見送る中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらした渡海船に乗り、曳き船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土(補陀落浄土)を目指して、南海の彼方へと船出して行ったとされている。

補陀落渡海船

現在、補陀洛山寺の境内には平成5(1993)年に「那智参詣曼荼羅をもとに復元」された「補陀落渡海の際に使われていた渡海船」が保管されている。

渡海船は入母屋造りの屋形船で船室は四十九本の板でつくられた鮮やかな朱塗の柵で囲まれていて、柵には四方に一基ずつ、合わせて四基(発心門、修行門、菩提門、涅槃門)の殯(もがり)の鳥居が設置されている。

これは仏教建築というよりは神道の神社を想起させるもので、熊野信仰の習合的な性質を反映しているとされる。

また、この船のつくりは修験道の葬送儀礼とも通じる部分があり、行者自身と世の中の両方に大きな功徳をもたらそうとしたことにおいて、補陀落渡海は修験道の苦行に近いものと見なされていたのかもしれないとのことである。

渡海船で最も目を引く特徴は密閉された船室で、窓も扉もない船室にはわずかな食料と水、灯りの燃料が入れられ、僧侶が死の直前まで経を唱え、観音菩薩に祈り続けられるようになっていた。

行者が乗り込むと出入り口を塞ぎ、外から釘を打ち付けて絶対に出られないようにした上で、観音浄土(補陀落浄土)に向かって二度と帰ることのない死出の旅に出たという。

補陀落渡海上人の墓

現在、補陀洛山寺の裏山には渡海上人の墓がある。

墓碑には「補陀落渡海宥照上人塔」のほか、祐信、祐尊、光林、善光らのものがあり、いずれも「勅賜補陀洛渡海〇〇上人」と記されている。

補陀落渡海宥照上人塔

補陀落渡海順意上人塔

平維盛・平時子の墓

渡海上人の墓は三段あり、その最上段の左端が維盛、その右が平時子の供養塔とされている。

平維盛は平重盛の長男で清盛の嫡孫にあたる。

平氏の嫡流のため幼少より重んぜられ、重要な役割を担うことが多かったが、源氏が打倒平家の兵を挙げると「富士川の戦い」、「倶利伽羅峠の戦い」で大敗し、平家一門の都落ちの要因を作った。

その後、世の無常を感じて高野山で出家、那智の海へ舟を出して入水して果てたという。

補陀洛山寺渡海上人一覧(補陀洛山寺にて入手資料)

868年   慶龍上人(熊野年代記)
919年   祐真上人(熊野年代記)
1100年頃 某上人(台記)
1131年  高厳上人(熊野年代記)
1184年  平維盛(平家物語諸本)
1233年  智定坊(吾妻鏡ほか)
1441年  祐尊上人(熊野年代記)
1475年  万里小路冬房(續史愚抄)
1498年  盛祐上人(熊野年代記)
1531年  祐信上人(熊野年代記)
1539年  光林上人(熊野年代記)
1541年  正慶上人(熊野年代記)
1542年  善行上人(熊野年代記)
1545年  日誉上人(熊野年代記)
1556年  梵鶏上人(熊野年代記)
1560年  清信上人(熊野年代記)
1565年  金光坊(熊野巡覧記)
1578年  清源上人(熊野年代記)
1594年  心賢上人(熊野年代記)
1636年  清雲上人(熊野年代記)
1652年  良祐上人(熊野年代記)
1663年  清順上人(熊野年代記)
1689年  順意上人(熊野年代記)
1639年  清真上人(熊野年代記)
1722年  宥照上人(熊野年代記)

補陀洛山寺の境内にある看板

所在地→和歌山県那智勝浦町浜ノ宮348

 

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