東日本大震災の震災遺構を訪ねてみようと思ったきっかけ




東日本大震災の震災遺構を訪ねてみようと思ったきっかけ

2017年9月15日のこと。その日、私は三陸海岸沿いの観光をするべく、女川町から南三陸町へと北上していた。

その途中で、ある川を渡る橋の手前の交差点で信号が赤になり一時停止して止まった。

ふと、何の気なしにナビに目をやると、その交差点を曲がった所からすぐ近くの所に大川小学校という小学校があると表示されていた。

大川小学校といえば東日本大震災で大勢の小学生が亡くなった小学校も確か石巻市にある大川小学校という名前だったな…。と思い、現在地の住所に目をやると、石巻市と表示されていた。

これはひょっとしたら、あの「大川小学校」なのではないだろうか?と思った。大川小学校は石巻市の中心地にあるものだと勝手に思っていた私は、半信半疑ながらも「行ってみたところで、小学校があった所はきっと更地になっていて、もう何も残ってないだろう」と思いながらも、交差点を曲がって本当にすぐそこの所だったので、取り合えず行ってみることにした。

すると予想に反して大川小学校の校舎が取り壊されることもなく、あの日のままで残されていたのである。

これには本当にビックリさせられると同時に引き寄せられるように無意識のうちに大川小学校へと歩を進めたのは言うまでもない。

東日本大震災から6年余り。私の中で東日本大震災はすっかり風化して過去のものになっていた。

しかしながら、東日本大震災の震災被害の中でも小学生74人が死亡または行方不明となるという最も痛ましい現場の一つである大川小学校の校舎が解体されずにあの日のそのままの姿で残っているとは正直思いも寄らなかったと同時に大きな衝撃を受けた。

その後、北上を続けた私は宮古市の田老で、これもまた偶然に「たろう観光ホテル」という震災遺構を目にすることになった。

図らずもその旅の中で2つの震災遺構を目にすることとなり、少なからず衝撃を受けた私は、他にも震災遺構とされるものが残っているかも知れない、であるならば是非訪ねてみたいと思い立ったのが、震災遺構を訪ねることとなったきっかけである。

いずれにしても、あの時、偶然にあの信号で停まることがなかったら、すぐ近くに大川小学校があるということに気付くこともなく、私はただただ通り過ぎていたはずだ。

それまでは取り残されている震災遺構があるとは夢にも思ってなかったし、そもそも震災遺構という言葉さえも知らなかったのだから…。

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