近代まで両墓制が残っていた段々畑と海に囲まれた『青海の里』
青海の里は対馬市峰町の西海岸にある段々畑と海に囲まれた集落である。
集落内を散策すると昔ながらの高床式の倉庫や藻小屋、防風垣などが残されていて『日本の原風景』を凝縮したかのようなとても懐かしく心を鷲づかみにされる景観を見ることができる。
集落内の道は車がやっと1台通れるくらいの幅しかなく、これも昔ながらの景観を保っている。
また対馬海峡の荒々しい海と澄んだ空と段々畑を一望できる展望台があり、そこからの眺めは絶景である。
映画『男はつらいよ ~第27作浪速の恋の寅次郎~ 』のロケ地となったことでも有名である。
段々畑は対馬西海岸の断崖を背に急傾斜地に開墾された耕作地で平成20年には長崎のだんだん畑十選に選ばれている。
尚、青海の里には海辺に「埋め墓」、お寺には「拝み墓」というお墓があり、近代まで遺体の埋葬地と墓参りをする場所をわける両墓制の習俗があったことでも知られている。(津島記事に「(寺の)境内に葬ることを許さず、海辺に壙を作り一邑合葬す」ということがみえるという。)
さらに旧暦六月の初午の日、海岸に石積の塔を作り供物を換え、天道を祀る「ヤクマ」の行事が現在も受け継がれていて、海岸にはヤクマの塔がある。
私はこの青海の里が「たまらなく好き」で、両墓制についても非常に興味深く、是非探究してみたいという気持ちがあったが、時間的な制約などもあり、なかなか思うようにはいかなかった。
ネットで調べても両墓制の実態や埋め墓と拝み墓について「私が知りたい!」と思うことを詳しく説明しているサイトはなかった。
が、2018年~2019年の年末年始に掛けて対馬に三度目の訪問をした時に、ついに集落の方より両墓制のことについて色々とお話を伺う『またとない千載一遇の機会』を得た!
以下にその時(2019年1月1日)に聞いた話を記すことにする。
『80代のおばあさんから聞いた話』
昔は海沿いにある墓地に遺体を土葬した。(埋め墓)
集落内にある慈眼寺というお寺の後ろに墓地があり、以前はそちらを拝み墓として集落のものは拝んでいた。(拝み墓)
拝み墓は墓石だけで人は入っていない。
が、今では誰も拝み墓には参らない。
埋め墓は今ではそれぞれの家の墓石が建っているなど整備されているが以前は何もなかった。但し、区画が分かれていて区画ごとにあそこは誰々さんの家の墓地と村の人間は知っていた。
私が嫁いで来た時には両墓制はなくなっていた(慈眼寺に拝み墓を建てること?)が、まだ拝み墓にお参りする人はいた。
『72歳の青海の里で生まれ育ったおじいさんから聞いた話』
埋め墓は昔は一面砂利だった。どこまで掘っても海岸と同じく石しか出てこない。このため風通しがいいためか土と違って10年くらいでキレイな骨になる。
埋め墓は砂利がすぐに崩れるので深く掘るのが非常に難しい。深く掘るにはコツがいる。
埋め墓にしても、拝み墓にしても、一人一人の墓石があった。(埋め墓は砂利の上に墓石を置いていた)
わしらが中学生時代の50年前くらい(本当にこのおじいさんの中学生時代だったら60年前くらい?=昭和30年代~40年代?)まではお盆・お彼岸などの際は埋め墓と拝み墓を両方お参りしていた。
青海の里は一番多い時には25世帯(27世帯とも言っていた)あり、埋め墓も同じ数だけある。(ちなみに私が数えたところ23区画だったような気がする。)
なぜ両墓制が始まったのかについては寺の和尚さんがここに遺体を葬ることはダメというので海岸沿いに埋めるようになったと聞いている。
墓地の入口には平べったい石碑が建っている。村のものは埋め墓に行く際には必ずこれに頭を下げる。わしらの親もそうしていた。埋め墓には一人一人土葬をしているが、そうしているとすぐに区画がなくなってしまうので、定期的に昔の人の遺骨を上げて埋め墓の入口にまとめていたのではないか。ここにはわしらの祖先がいると教わっていたし、わしらもずっとそう思っていた。但し、遺骨をまとめたという話は聞いたことがあるだけで実際に遺骨をまとめたのを見たことはない。
拝み墓にはもう誰も参らないから草木に埋もれている。でも今の季節なら草木も枯れているだろうから行ってみれば少しは見れるのではないか。
青海の里では戦後も土葬を続けていて、火葬するようになったのは平成に入ってからだった。
この集落は300年くらいの歴史がある。
慈眼寺は今では無住の寺となっている。
ヤクマの塔は以前は高いところに作っていた(傾斜もゆるかった)が、護岸工事がされてからは登るのが大変になったので、浜辺に作るようになった。以前のヤクマの塔は今でも高いところに残っている。
現在のヤクマの塔は台風が来ると海がしけて高波を被るのですぐに崩れる。
最後に「拝み墓」と「埋め墓」の現地の様子を紹介をします。
『拝み墓(慈眼寺の裏)』
慈眼寺の拝み墓に行ってみた。尚、現在、慈眼寺は無住の寺となっている。
拝み墓はお堂の後ろから上がっていくのだが、今では草木に埋もれ、道と呼べるようなものはなくなっていた。
おまけにかなりの急傾斜で、その草木を頼りにしながらではないと上り下りできないほどだった。
拝み墓の墓石はほとんどが明治か大正のものだった。
もう少し古そうな墓石もあったが文字は読み取れなかった。
埋め墓
墓地の入口には平べったい石碑が建っている。
村の方は埋め墓に行く際には必ずこれに頭を下げるそうである。
以前、埋め墓には一人一人を土葬をしていたが、そうしているとすぐに区画がなくなってしまうので、定期的に昔の人の遺骨を上げて埋め墓の入口にまとめていたのではないかとのことである。
埋め墓は昔は一面砂利だったそうである。どこまで掘っても海岸と同じく石しか出てこないため、深く掘るのが非常に難しかったそうである。
現在では、昔のように「砂利のままの区画」は「3区画だけ」となっていた。
「両墓制について(まとめ)」
埋め墓の方には昭和19年の墓石があった。また、おじいさん、おばあさんから聞いた話などを総合して考えると昭和になってから両墓制(拝み墓を建てること)は廃止されたのではないだろうか。
それでもしばらくは親や祖父母の墓があったので、拝み墓に参る人もいたのだろうが、両墓制が廃止されて何十年も経ち、もともと埋め墓だったところにもそれぞれの家の墓石が建てられたので、いつの頃からか拝み墓には誰も参らなくなったのではないかと思われる。
所在地→長崎県対馬市峰町青海132
おまけ:その他、青海の里の写真
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拝み墓と埋め墓の風習は兵庫県の私の故郷にもありました。今は、永らく故郷の葬儀に出てないので、どうなっているかは知りませんが、祖父が亡くなった時は、山の埋め墓に埋葬して、魂のみを、ムショ(漢字は分からない」と言う拝み墓に入れると言う風習があり、今でも、お墓まいりと言えば、山の埋葬場所と、ムショにおまいりしております。子供の頃から、それが当たり前だったので、不思議に思ってませんでしたが、そういえば、そんな事をしているのは、私の生まれた地域だけだと思います。少し離れた場所はそんな事はしてなかった気がきます。興味のあるお話でした。
コメントありがとうございます。現在も続けておられるかはともかく、両墓制が行われていたところは全国で少なからずあるようですね。