日本列島に刻まれた天変地異による「災害の痕跡」を訪ねて…
日本はありがたくないことに「地震大国」「火山大国」である。このため、日本列島の各地には災害の痕跡が残されている。そんな日本全国に刻まれた天変地異による『災害の痕跡』を訪ねてみた。
『天正大地震(天正13(1585)年旧11月29日)による災害の痕跡』
帰雲城
帰雲城は天正13(1585)年旧11月29日の夜に起こった天正大地震により一夜にして埋没・消滅し、現在に至るまでその所在地が判明していない幻の城である。
木舟城
木舟城と城下町は天正13(1585)年旧11月29日の夜に起こった天正大地震により、壊滅的な被害を受け、城主である前田秀継夫妻をはじめ多くの人々が圧死した城である。
『象潟大地震(文化元(1804)年6月4日)による災害の痕跡』
象潟(九十九島)
象潟(九十九島)は、かつて「あの松島と並び称された」景勝地でありながら『大地震』で海底が2m以上隆起し、一夜にして陸地となってしまったものである。
『桜島の大噴火(大正3(1914)年1月)による災害の痕跡』
黒神埋没鳥居
黒神埋没鳥居は大正3(1914)年に桜島が大噴火した際に埋もれてしまった鳥居である。
牛根麓稲荷神社の埋没鳥居
牛根麓稲荷神社の埋没鳥居は大正3(1914)年に桜島が大噴火した際の降灰により埋没してしまった鳥居である。
「東日本大震災(平成23(2011)年3月11日)による災害の痕跡」
奇跡の一本松
奇跡の一本松は、東日本大震災による大津波により約2キロに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防風林として存在していた「高田松原」が一瞬にして失われてしまった中で、唯一、奇跡的に耐え残った「一本の松」である。
大川小学校
大川小学校は東日本大震災の震災被害の中でも「小学生74人が死亡または行方不明となる」という最も痛ましい現場の一つである。
女川交番
旧女川交番は昭和55年に建設された鉄筋コンクリート2階建ての建物で、被災前は1階が交番、2階は休憩所として使われていたが、東日本大震災で女川町を襲った津波の引き波により、基礎部分の杭が引き抜かれた状態で横倒しとなったものである。
中浜小学校
たろう観光ホテル
たろう観光ホテルは昭和61(1986)年に建設された6階建てのホテルで、東日本大震災で高さ17mの津波に襲われ6階建ての建物の4階までが浸水し、1・2階は柱だけを残して完全に破壊されるなど大きな被害を受けながらも残存したものである。
陸前高田ユースホステル
陸前高田ユースホステルは高田松原の中にあった宿泊施設で、東日本大震災の大津波により完全に水没し、砂地であった地盤が大津波によって大きくえぐられたため、建物の東半分が折れ曲がるように破壊されてしまったものである。
道の駅高田松原タピック45
「タピック45」は、「道の駅高田松原」のシンボル施設として平成3年に建設されたものであるが、東日本大震災の津波の圧力を強く受けた内部の壁面は大きく損傷を受け、国道側に存在した増築部分は跡形もなく流されてしまったものである。
龍の松
龍の松は東日本大震災による大津波で岩井崎の松の木の多くが倒され波にさらわれて流失した中で、波が引いた後に岬の先端部にこの1本の松が奇跡的に残っていたものである。
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